ただ夜に降る雨のように


 夢に堕ちる瞬間はいつも孤独だ。現実世界から物凄い遠心力で放り出される。
 一人きりの夜はまだ良い。どうせ初めから孤立した世界に居るのだから、眠りにつくのにそれほど不安は生じない。問題はあなたが隣に居る夜で、既に寝息を立てている場合などたまったものではない。
 折角手に入れた安堵を自ら手離す。それはなんと愚かな事なのだろう。そしてなんと恐ろしい事なのだろう。二人で居るというのに、一人にならなければいけない瞬間。その瞬間をわたしは何よりも嫌悪していた。
 わたしは目を開いたまま、カーテンの隙間から忍び寄る夜の気配に意識を集中して居た。あなたの背中へぴたりと身体を寄せると聞こえて来るのは、力強い生命維持装置の拍動と穏やかな呼吸の律動。そして、それらを包み込むように、雨の音がしとしと聞こえてきた。
「ねえ」
 そっと首筋に触れた言葉はあなたの呼吸を深めた。しかしその小さな呟きの効力は無く、わたしの存在を無視したままあなたの背中はしっかりと同じ時の流れを刻んで居た。
「ねえ、寝ちゃった?」
 わたしのささやかな問いかけに、あなたの背中が大きく動いた。うーん、と小さな声を上げると、ふう、と息を吐き出してのっそりと動き始めた。あなたはわたしの方に向き直ると、さっと身体の下敷きになって居た右腕を差し出した。わたしはごく当たり前に自分の頭を持ち上げて、あなたの華奢な腕の上に乗せた。
 それを合図にしたかのように、あなたはわたしをぐいっと引き寄せて力強く抱き締めると、今度はその力を緩めてあたしの髪に優しく何度も触れた。
「眠れないの?」
 眠たそうな子供みたいな声は、今年の夏に二人で見た降り注ぐ流星群よりも、わたしの胸をときめかせてくれた。その一言だけで、わたしだけに向けられた言葉だけで、人生を終わりにしても良いと想うくらいの絶頂の幸福感を与えてくれた。わたしはあなたの胸に顔を埋めると、
「眠るのが怖いの」
 そう今にも消え入りそうな声で呟き、あなたの意識を一心にわたしだけに向けようとした。嘘では無かった。怖いのは事実だった。けれどそれを如何に助長する言い方をするかが、わたしにとっては何よりも重要な事だった。今、この国に核爆弾が投下されようともそんな事は大した問題では無かった。わたしには、あなたの存在だけが全てだったから。あなたに抱き締めて貰え無いならばこんな世界等消えてしまっても一向に構わなかった。
「大丈夫だよ」
 甘い蜜のような囁きがわたしの肌の上にとろりと零れ落ちた。あなたは左手を大きく回してあたしをすっぽりと包み込む。あなたの腕によって濃縮される世界。深まった温もりを感じながら、わたしは今自分の置かれて居る状況を何よりも愛しく想った。
 あなたに抱き締められる事によって生じる浮遊感。夢を見て居るような気持ち。水晶の輝きより儚く、この身体に与えられる強靭さ。しなやかに泳ぐ人魚のように、泡と魚の群れと戯れながら海中を漂う充実感。
 今、全てがあたしの脳内で花開く。
「傍に居るから」
 あなたの声が凛と響いて、夜の引く線が遠退いて行く。
 孤独の淵で告げられた約束の台詞は、わたしを哀しみも苦しみも無い甘い綿菓子で出来た世界へと連れ去ってくれた。
 何度も何度も、約束は繰り返され、その度に約束はその効力を強めて居ると、わたしは確かにそう感じて居た。同じ夜を越えて行く都度、あなたの関心の矛先はわたしだけに何の迷いも無く、真っ直ぐと向けられて居た。そのはずだった。
 永遠を手にしたかのようにわたしはあなたをいつでも想い続けた。躊躇い等必要無かった。殆どの人間が何の疑問も持たないで明日はやって来ると想って居るように、わたしもあなたとの未来が永遠に続いて行くと信じて疑いもしなかった。人間の世界には裏切りという行為が存在する事等、遠い昔に忘れ去って居た。今まで沢山の傷や痛みを受けた分だけ、今在るこの幸福の象徴であるあなたにあたしは頼り切って、信じ切ってしまって居た。それが過ちだと言うのならば、あたしの短い一生を今すぐに終えても良い。過ちだと気付くその前に。この手で終わりにしても構わない。
 永遠に続くであろう、あなたの腕の温かさに溺れて夜の闇を愛し生きて行くのと同じくらいに幸せな死が、あたしに訪れるだけの事なのだから。
 あなたはわたしを羽の傷付いた小鳥のように大事に扱った。小さな鳥篭の中、ふかふかの毛布が敷かれてわたしはあなたの愛情を一身に受けて幸福だった。だから、いつまでもわたしの傷は治らなかった。治ってしまえば、あなたはこの鳥篭を開け放ち、わたしが飛び立つように差し向ける。だから、いつまでもわたしの傷は治らなかった。その事にあなたが疑問を持つまでに、そう長く時間はかからなかった。
 雨は降り続く。
 携帯が鳴る。
 あなたは起き上がり、着信表示を見た途端に急いでベランダに出る。
 雨なのに。わたしはそう思うが何も口にしない。微動だにしない。あなたが捲りあげた布団もそのままで、上半身が寒かったがそれでも動こうとはしなかった。死体のように転がり、目を見開き、ただ一点を見つめていた。
 わたしとは関係のない、あなたが今ベランダに居る。それはあなたであってあなたではない、全くの他人だった。だからわたしは興味もなかった。正確には、興味のないフリを懸命にしていた。あなたを取り上げられたわたしは、空虚で無価値な自分に戻っていた。
 あなたのいないわたしなど、なんのいみもかちもない。
 数分も経たないうちに、あなたはベランダから部屋の中へと戻って来た。しかし、わたしの隣に戻って来る事はなかった。
「帰るよ」
 そう言いながら身支度を整えるあなたの姿をわたしは、くしゃくしゃになったシーツの中から見守っていた。そうする事しか、出来なかった。他にどうすれば良かったのだろう。行かないでと引き止めれば良かったのだろうか、それともじゃあまたねと余裕の表情でも浮かべれば良かったのだろうか。でも、どちらもわたしには出来なかった。あなたを引き剥がされたわたしにそんな気力は残っていなかった。
 玄関の扉が静かに開く音がした。雨の音が大きくなった。そしてまた、小さくなる。あなたは部屋を出て行った。
 暫く、雨の音に耳を澄ませていた。その中に紛れて、あなたの足音が微かに聞こえる気がした。
 水槽をひっくり返して温い水に沈んだわたしの部屋では、熱帯魚が泳いでいた。熱帯魚は古代魚並に巨大だったが、ベタの雄をそのまま大きくしたような美しく愛らしい姿をしている。色は紺碧で闇夜と良く似合っている。わたしは部屋を悠然と泳ぐ熱帯魚を見つめ、そのエラの動きに合わせて一緒に呼吸をしていた。
 天井に差し掛かった時、熱帯魚は忽然と姿を消した。同時にわたしは目を見開く。今まで熱帯魚が泳いでいたはずの場所を見つめ、瞬きひとつしないでいると、熱帯魚が再び見えた。けれどそれは幻だとわたしも勿論わかっている。
 限界まで目を見開いて、それからゆっくりと瞳を閉じた時、瞼の裏が真っ暗で何も見えない事に驚いた。驚いて目を開けると、そこはもういつものわたしの部屋だった。あなたの居ない、いつもの部屋。熱帯魚も、消え去っていた。
 終わる事を知らない夜雨は今宵もまた降り続いている。<了>


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